「映像ミエカタDIY」は当たり前のものとして受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら、改めてその面白さを確認していくシリーズです。今回はいま、映画界で最も注目を集める監督の一人、ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス監督作品を取り上げていきます。
日本国内では1月に公開された『哀れなるものたち』に続き、今年2作目の公開となる最新作『憐みの3章』の上映が始まったばかり。前作に引き続きプロデューサーとしても名を連ねる常連エマ・ストーンの演技も注目ですが、登場人物も文脈も異なる3つの短編を同じ俳優陣が演じるという演劇的な体裁や、初期の作品を想起させるような不条理な世界感がとても印象的な作品です。
ランティモス監督の過去作品はその多くが配信プラットフォームで視聴できることから、新作を劇場で観てからフィルモグラフィーを追いかける(逆も然り)といった贅沢な楽しみ方も可能です。
今回はそんなヨルゴス・ランティモス監督作品を映画『哀れなるものたち』を中心に少し振り返ってみたいと思います。
『哀れなるものたち』(2023)
スコットランドの作家アラスター・グレイの同名小説を原作として、日本では今年1月に公開されて大変な話題になりました。物語の設定や登場人物の名前などからわかりますが、原作および映画作品が古典『フランケンシュタイン』、その作者のメアリー・シェリーと彼女の両親(母親はフェミニズムの創始者、あるいは先駆者とも呼ばれるメアリー・ウルストンクラフト、父親は無神論者でアナキズムの先駆者であるウィリアム・ゴドウィン)が重要な参照元となっています。
映画『哀れなるものたち』は原作の持つ複雑な構造を全て映画化したものではないのですが(その辺りは議論のあるところ)、素晴らしい美術によって原作にはなかった世界観を付け加え、映画的なまとまりとして提示したランティモス監督の手腕には感心するばかりです。
映像表現もとても個性的で、本作では極端な広角レンズの使用が印象的です。周縁が極端に歪んだ画面は、舞台や衣装などの美術が表現する独特な世界観(19世紀xスチームパンクのような)をより没入感のあるものにしています。
テイストとしてはそれまでの作品や『憐みの3章』に見られるエグ味が抑えられており、はじめて観るランティモス作品としても楽しみやすいものになっていると個人的には思っています。
『籠の中の乙女』(2009)や『ロブスター』(2015)で描かれるもの
一方、『籠の中の乙女』や『ロブスター』には、新作『憐みの3章』でも読み取ることのできる抑圧や日常に存在する歪みのようなものをより明確に、ときに非常に痛々しい方法で、主題として取り上げている作品です。
『籠の中の乙女』では、外界と隔絶された場所、両親による潔癖が極まった規範、そのような環境での中で育てられた子供たちが描かれ、『ロブスター』では独身であることが禁忌とされる社会が取り上げられています。
人々が無意識のうちに目を背けている日常のグロステクな部分を淡々と見せる感じは、ミヒャエル・ハネケの映画作品を連想するところがあります。しかし、その大胆な設定も含めてユーモアが常に存在しているところはランティモス監督の個性を感じるところです。
抑圧や規範、それに対する依存、もしくはそこからの脱出。このように言葉を並べてみると、それらは『哀れなるものたち』にも通底するテーマであることを改めて感じます。しかし、『籠の中の乙女』や『ロブスター』はそこに生じている歪みや痛みをストレートに描く強さのようなものがあり、それは時には目を覆いたくなるような映像として表現されています。そのあたりは観る人を選ぶところでもありますが、強烈な印象を残すことは間違いないはずです。
ランティモス監督の現在地としての最新作『憐みの3章』
最新作の『憐みの3章』は、『哀れなるものたち』でエマ・ストーンとともに獲得した普遍性と、初期作品の強い表現がほどよくミックスされているようでもあり、ランティモス監督作品の入門編としてうってつけかもしれません。抑圧の物語を現代のアメリカを舞台にミニマルな形で仕上げている点(短編x3本)も、作品のユーモラスな部分の味わいやすさにつながっている気がします。
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アカデミー賞でも大きな話題となった『哀れなるものたち』、ヨーロッパの映画作家としてのエッジを感じられる『籠の中の乙女』や『ロブスター』、そして最新作『憐みの3章』。何から観るのかはその人次第、出会った作品の印象で映画作家の見え方もずいぶん異なるものになるはずです。配信作品と劇場公開が重なる絶好のタイミング、ぜひヨルゴス・ランティモス監督と出会いを楽しんでみてはいかがでしょうか。(了)