
「映像ミエカタDIY」は、当たり前のように受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら改めてその面白さを確認していくシリーズです。今回はヨアキム・トリアー監督『センチメンタル・バリュー』ついてご紹介します。
前作『わたしは最悪。』で、30歳を目前にした女性の「選べない焦燥感」をリアルに描き、日本でも大ヒットを記録したヨアキム・トリアー監督ですが、最新作『センチメンタル・バリュー』が2月20日より日本でも公開になりました。
本作は2025年に第78回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、本年度のアカデミー各賞にも数多くノミネートされている話題作です。
『わたしは最悪。』が個人の視点を扱った「私」の物語であったとすれば、『センチメンタル・バリュー』は「家」、そして「家族」を中心に、「私たち」の歴史と向き合う映画です。劇場での体験がまだうまく言語化できませんが、複雑に絡まる家族の物語を、映画制作と重ね合わせる形で、見事にまとめ上げた本作はヨアキム・トリアー監督の到達点と言えるのではないでしょうか。
多くの参照を含みながらも、観客を突き放すことなく、穏やかに包み込むような印象は、「優しさこそが、新しいパンクだ(Tenderness is the new punk)」という監督の哲学とも合致するものです。
1.衝突する二つの言語、解けない家族のしがらみ
主演は、世界中が注目する俳優レナーテ・レインスヴェ(『わたしは最悪。』でも主演)。そして父親役には、名優ステラン・スカルスガルド。幼い頃に家族を捨てて家を出た映画監督である父が、その家を舞台に15年ぶりの新作を撮影するために娘の前に姿をあらわします。俳優である娘を主演として起用するために…。
この二人が演じる「こじれた父娘」のやり取りは、観ているこちらの胸がひりつくほど不器用です。
実は劇中で、父親はスウェーデン語を使い、娘はノルウェー語を使って会話をしています。意味は通じ合うのに、決して同じ場所には立っていない。そんな二人の距離感が、言葉のチグハグさからも滲み出しています。
2.「家」が語る、時のうつろい
本作のもう一つの主役は、家族がかつて共に過ごした「家」そのものです。
特筆すべきは、その家が単なる背景ではなく、そこに住む人間たちの歴史をすべて見守ってきた「語り部」のように描かれている点です。
その静謐な描写は、ヴァージニア・ウルフの傑作『燈台へ』の第二章を彷彿とさせます。人がいなくなった別荘で、光の移ろいや風のそよぎだけが時間の経過を物語るように、この映画もまた、壁の傷や家具の配置を通して、そこにあった喜びや悲しみを、言葉以上に雄弁に語りかけてくるのです。
私たちは生きていく中で、思い出の詰まった場所を離れ、形あるものを手放さなければならない局面に立たされます。しかし、たとえ物理的な場所を失ったとしても、それを「物語」として編み直すことで、私たちは自分自身のルーツと再び繋がることができる。その再生のプロセスが、この映画には美しく刻まれているようです。
3. 「私」の物語から、「私たち」の歴史へ
前作『わたしは最悪。』は、主人公ユリアの視点から描かれる、瑞々しい「一人称」の物語でした。しかし今作『センチメンタル・バリュー』は、複数の視点が交錯する、より多層的な構造を持っています。
劇中で描かれるのは、単なる親子の不仲ではありません。 父が出て行ったことで娘が負った心の傷。 その実家で、自ら命を絶った母が抱えていた深い闇。 それを目の当たりにした7歳だった頃の父親。さらに物語は、その母がかつて第二次世界大戦中に受けた拷問という、ノルウェーという国が刻んできた凄惨な歴史にまで触れることになります。
ひとつの家、ひとつの家族の物語を掘り下げていった先に、個人の痛みを超えた「国の記憶」が横たわっている──。この重層的な構造が、ヨアキム・トリアー監督が本作で到達した凄まじい境地です。
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穏やかなスタンスは崩さぬまま、家族について、映画について、そして物語ることを突き詰めた傑作。ぜひ劇場でご覧ください!
