「映像のミエカタDIY」は、当たり前のものとして受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら、改めてその面白さを確認していくシリーズです。今回は、20世紀の美術に多大な影響をもたらしたフランスの美術家マルセル・デュシャン(1887-1968)を取り上げます。私が実際に足を運んだドイツのフランクフルト現代美術館(MMK https://www.mmk.art/en)でのマルセル・デュシャンの回顧展についても、その様子をご紹介いたします。
マルセル・デュシャン『泉(Fotaine, 1917)』について
前回「映像のミエカタDIY #16」で現代美術の展覧会を紹介した際の冒頭で、現代美術に触れる意義について「『現代美術はなんだか難しそうだ』と思われる方もいるかもしれませんが、『当たり前とされているものを考え直してみる』という現代美術の取り組みは、課題解決そのものや解答を提示するものではないかもしれませんが、この世界にある様々な事象についての再考を促し、新たな問いへと人々を誘うとても豊かなものです。」と説明をしました。
マルセル・デュシャンの代表的な作品『泉(Fotaine, 1917)』はまさに「当たり前とされているものを考え直してみる」という現代美術のある種の考え方の出発点の一つと考えられている作品です。
『泉』はデュシャンが1917年にニューヨークで開催された独立芸術協会の「ニューヨーク・アンデパンダン」展に出品を試みた作品です。「試みた」というのは、出品料を支払えば無審査で誰でも出品できる規則にも関わらず、協会がこの作品の出品を許可しなかったという事の顛末があるためです。その作品は、本来ならば壁に設置されて使用されるような磁器の男性用小便器を横に倒した状態でサインを記入したものでした。
このように大量生産された既製品のその意味や機能をなくして「オブジェ」として陳列をすることについて、デュシャン自身により「レディ・メイド(既製品の意)」という言葉が作品のカテゴリーを表す名称として用いられることになりました。
このレディ・メイドは芸術における様々な問題を提起することになりました。『泉』が作品として出品を認められなかったことも、「何が芸術で、何が芸術ではないのか」もしくは「何が『それ』を芸術と足らしめるのか」といった、自明であると疑われなかった制度や規範の存在を改めて浮き彫りにしたと言えます。
「何が芸術で、何が芸術ではないのか」という問いは直接的には芸術の問題ですが、その問いはデュシャンやダダの時代から1960年代のフルクサス運動や現代思想の流れを経て、それらの形式の影響下にある以降の現代美術においては拡張したものへと姿を変えることになりました。このように社会規範の問い直し、広く「当たり前とされているものを考え直してみる」といった傾向を持つことになった現代の芸術の出発点の一つとしても、デュシャンの『泉』やレディ・メイドの存在は大きかったと考えられています。
フランクフルト現代美術館(MMK)「MARCEL DUCHAMP」展について
フランクフルト現代美術館にて先日10/3までデュシャンの展覧会が行われていました。特徴的な建築空間を持つMMKでは、コレクション作品をその空間に合わせて配置した常設展示も素晴らしく、河原温のデイトペイングのみで構成された一室などは個人的にはフランクフルトを訪れるたびに見るのを楽しみにしています。しかし今回は全ての常設作品が撤去され、本館(MMK MUSEUM)の全フロアを使用してデュシャンの作品が配置されていました。ギフトショップも展示に準じた品揃えで、美術館全体で展覧会への統一感を打ち出している様子でした。
展示に足を運んだ個人的な印象としては、レディ・メイドや大ガラスといった代表的な作品よりも、デュシャンという一人の作家の生涯を通して眺めたときの作品や活動の多様性、レディ・メイド以前の作品、そして晩年のチェスへの傾倒などが強く残りました。
展示で配布されていたハンドブックには32個ものテーマ/キーワードの提示と解説が掲載されており、デュシャンの作品に2020年を過ぎた現在と接続可能な注目すべき点が多々あることを改めて考えることができました。
ハンドブック等の資料や展示作品の写真の多くはMMKの展示ページにて公開されていますので、ご興味を持たれた際にはぜひご覧いただければと思います。(了)