「映像ミエカタDIY」は当たり前のものとして受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら、改めてその面白さを確認していくシリーズです。今週・来週の2回はアメリカの新進映画制作・配給会社A24の手掛ける映画作品を取り上げます。
今回は「再会についての映像表現/『パスト ライブス』について」と題して、日本でも先日4/5に公開されたセリーヌ・ソン監督初長編作品『パスト ライブス/再会(原題:PAST LIVES)』 をご紹介します。『パスト ライブス』は昨年北米を中心に公開され、アカデミー賞にノミネートされるなど2023年を代表する映画作品のひとつとして大変な話題となった作品です。私もA24による素晴らしいアートワークなどを眺めながら、大きな期待をもって国内公開を待っていました。
ソウルに暮らす12歳の少女ノラと少年ヘソン。ふたりはお互いに恋心を抱いていたが、ノラの海外移住により離れ離れになってしまう。12年後24歳になり、ニューヨークとソウルでそれぞれの人生を歩んでいたふたりは、オンラインで再会を果たし、お互いを想いながらもすれ違ってしまう。そして12年後の36歳、ノラは作家のアーサーと結婚していた。ヘソンはそのことを知りながらも、ノラに会うためにニューヨークを訪れる。24年ぶりにやっとめぐり逢えたふたりの再会の7日間。ふたりが選ぶ、運命とはーー。
物語は「運命」の意味で使う韓国の言葉“縁—イニョン—”がキーワード。見知らぬ者がすれ違ったときに、袖が偶然触れるのは、前世―PAST LIVES―でふたりの間に“縁”があったから。登場人物達が感じるいくつもの「もしも…」が、観客一人ひとりの人生における「あの時」の選択に重なり、心の中に存在する“忘れられない恋”の記憶を揺り起こす。これは、あなたの物語。(公式Youtube予告編テキストより引用)
観客が「再会」そのものと出会えるミニマルな物語
上記の紹介文からもわかるように、『パスト ライブス』は再会を主題に取り上げた映画です。12歳、24歳、36歳と12年区切りの3つのパートで構成される物語は、リチャード・リンクレイター監督による『ビフォア・サンライズ』、『ビフォア・サンセット』そして『ビフォア・ミッドナイト』の三部作(名作!)が出会いと再会、そしてその後の関係を9年区切りで取り上げたことを参照していると思われ、とりわけ9年ぶりの再会を描いた『ビフォア・サンセット』のことを強く思い出す人もいるはずです。
私もその一人であるわけですが、それは「再会するということ」それ自体と向かい合う映画作品と久々に出会えたことのに対する喜びのような感覚に近いものがあります。
出会いや再会というのは、多くの人々の人生に思い当たるものが存在するという共感性の高いモチーフですが、その一方でそれは人々の思い入れにあふれた個別具体的な物語として存在するものです。
その点、『パスト ライブス』に指摘されている日常の細部の多くが省かれているかのようなミニマルな物語の展開と、静謐な映像の特筆すべき美しさは、作品の具体的な物語に対する感情移入や共感とは別に、観客が「再会するということ」そのものと自然に出会うことを可能にしているという意味でとても興味深いものがあります。
東アジア移民の物語
セリーヌ・ソン監督の 自伝的な要素が含まれる主人公ノラが韓国からカナダ、そしてアメリカへの移民であるという設定は、日本語で「前世」と訳されているタイトルでもある「パスト ライブス」という言葉への想像力を膨らませるものです。それは、移民としてアメリカで暮らす自分が、幼なじみのヘソンと再開することで「韓国で過ごしたかつての自分=前世」と再び出会うという意味にも受け取ることができるものです。
東アジアからの移民の物語としては、先述したミニマルな物語を現実が漂白されたものとしてその問題点を指摘する批評もあります。『ビフォア・サンセット』のような構造を持つ映画が韓国から始まる物語を題材とされていることに個人的には感慨がありますが、その表現の成立の裏表についての指摘には留意するべき点があると思います。
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再会についての映画、東アジア移民の物語としての映画、『パスト ライブス』のその両側面を見ていきました。東アジア移民としての個別の物語を薄めてしまっている指摘もある一方で、北米を中心とした現代社会のイシュー(への入口/導入)を取り扱うことと、映画の普遍的な強度が両立する映画に取り組んできたA24の特徴的な美学が表れている作品とも言えるかもしれません。
『パスト ライブス』は現在全国のスクリーンで上映されています。106分という短い時間を忘れてしまう、ゆったりと美しい時間の流れる再開についての映画。ぜひ劇場で体験してみてはいかがでしょうか。
(了)