「映像ミエカタDIY」は私たちが当たり前のものとして受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら、改めてその面白さを確認していくシリーズです。
今回は現在国内で劇場公開されているトーマス・ケイリー監督によるフランス映画『動物界』について、「同じ姿の異なる見え方」をキーワードに取り上げていきます。
「フランス映画」よりも、日本の作家主義のアニメーション作品を連想する『動物界』
日本に届けられる「フランス映画」といえばロベール・ブレッソンやヌーベルヴァーグの諸作家のような、いわゆる作家主義に連なる作品が多い印象で、実際に私もそのような映画が大好きなのですが、『動物界』はそのような「フランス映画」のイメージとは異なる映画作品です。
身体が動物化していくという「奇病」が蔓延していく世界という物語の設定は、優生思想による差別と排除や、異なる民族や文化の受け止め方、現代の移民の問題を重ねて考えるところですが、日本で暮らす人々にとっては、日本のアニメーション作家による映画作品との接続が思い浮かぶような作品でもあります。
私も映画を見ながら、宮崎駿監督の諸作や細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』のことが思い浮かびました。そのような作家がアニメーション作品で取り組んできた、子供の頃から慣れ親しんできた主題を実写映画で目の当たりにしていることに大きな感動がありました。
様々なテーマを包み込むファンタジー
動物化する「奇病」についての映画でありながら、その原因を突き詰めるわけではなく、物語の中心に置かれているのは家族を中心としたパーソナルな関係の変化です。この少しふんわりした物語の構造によって、観客それぞれ幅の広い受け止め方が可能になっているのもこの映画のユニークな点です。
中世における街を追われて森で暮らす人々の物語や現代の移民と排斥の問題やパンデミックのことを直接的に想起する一方で、妻に続いて動物化していく息子が自分から離れていく姿を見守る父親に注目すれば、そこには人々が子育てにおいて経験するモチーフを見つけることもできます。
監督は本作の製作時に参照した作品の一つとして小津安二郎監督作品『一人息子』を挙げています。予告編を見る限りはそういった要素は見えづらいのですが、本編を見た後ではその影響がとてもよく作品に現れていると気がつくことができるはずです。
同じ姿の異なる見え方
『動物界』を見て、もっとも興味深い体験だったのは、動物化する人々の見え方の変化です。物語冒頭ではボディ・ホラーそのもの、恐ろしく、忌むべきもの、哀れなるものとして映される人々が、物語が進むにつれてより身近な存在として受けとめることができる存在になっていくのです。
物語の中で動物化がゆるやかに進行してく息子が、森に住む同じ症状を持つ人々と触れ合い親密になっていく様を、観客も一緒に体験することでそのような体験を得ることになります。
近年の映画作品で同様の「見え方の変化」を扱っているものとしては、宮崎駿監督の長編アニメーション映画『君たちはどう生きるか』が挙げられます。作品冒頭では主人公である少年の目に映る青サギ(サギ男)や使用人が異形のものとして描かれていますが、物語が進み主人公の成長とともに、彼/彼女らは親しみを込めた姿に変わっていきます。
それは「主人公にとって世界はそのように見えている」という世界の見え方の変化を、実際にキャラクターの頭身を描き分けるなどアニメーション造形の変化で示したと考えることができるでしょう。つまり実際に違うものとして描くことで、見え方の変化を表現しているということです。
一方、『動物界』は同じような「見え方の変化」を、登場する人々の姿を変えることなく表現しています。鳥化していく男性フィクスは、冒頭場面で救急車から逃げ出すところから、主人公家族の息子との森での親交が描かれる物語の中盤以降まで、その姿・造形自体には変化はありません。登場人物である息子も、私たち観客も、同じ姿のフィクスを前に恐ろしさや、親しみを感じることになるのです。
そこにあるのは「見せ方」の変化です。ホラー的なカットを多用する演出から、ゆったりと親密な関係を描く演出へと変わることで、同じ姿についての「見え方」に大きな変化が起きているのです。
このような「見せ方」の文法が劇中に堂々わかりやすく配置されているのは、実際の世界で起きている不寛容や偏見を解いていくためのヒントがそこあるという監督からのメッセージとしても受け取れるものではないでしょうか。「私たちはどのようにその目で世界を見ているのか」、そのようなことを改めて考えさせられた映画体験でした。(了)