「映像のミエカタDIY」は、当たり前のものとして受け取っている映像の効果について、身近な素材を取り上げながら、改めてその面白さを確認していくシリーズです。今回は「見通しのきかない物語(群像劇を見る)」と題して、群像劇と言われる物語のスタイルを持った映画を取り上げます。
一般的な物語や、ニュースやYouTube、そしてSNS等の多くの映像コンテンツにおいて、「何を見るべきか」は通常明らかなことです。製作者としても「見せたいもの」は明確であり、視聴者は探す必要を感じることなく「見せたいもの/見るべきもの」と出会います。
しかし、明確な主人公を定めないある種の群像劇では「何を見るべきなのか」が明らかではなく、日常のそれとは異なる視聴体験が存在しています。今回はロバート・アルトマン監督による映画作品『ナッシュビル』を取り上げながら群像劇の視聴体験について触れています。
映像の中の誰を見ているのか?
普段、映像コンテンツを視聴する際に自分が「誰を見ているのか?」について考える機会は多くはありません。なぜなら、YouTubeのコンテンツであれば自分に語りかけてくるYouTuber、劇映画やドラマであれば物語の主要な人物、といったように視聴者の視線は自然とそこに集中します。もしくは、そこに視線が集まるように映像作品は作られているからです。
リュミエール兄弟の固定カメラで撮影された短い映像を眺める時に、主題として配置された被写体以外のものに気がつき視線を奪われる(ex: 風で揺れる赤ちゃんのよだれ掛けに視線が向く)。そのような素晴らしい映像体験もありますが、それは動かないカメラと構図を前にした視聴者の能動的な視線の操作によるもので、例外的に捉えるべきでしょう。
私たちは通常、映像の中の見るべき人を見続け、情報を得たり、物語を味わったりしているのです。
群像劇への視線
一方、群像劇は通常の物語とは異なり、絶対的な主役を設けず複数の主要な登場人物それぞれの物語が重なり合うことで構成されます。その構成の仕方には様々なアプローチがあり、通常の物語に近いものから「群像劇らしい」ものまで多種多様です。
例えばHBO制作のドラマシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』は、大変多くの主要キャストが登場する群像劇ですが、各シーズン、もしくは各エピソードにそれぞれフォーカスされた登場人物を配置することで、視聴者は「そのシーズン/エピソードの主役」を追いかけて通常の物語と同じような映像の体験ができます。
昨年日本公開された『リコリス・ピザ』も記憶に新しいポール・トーマス・アンダーソン監督による名作『マグノリア』は、一見関係がない9人の男女が過ごす24時間を描いた群像劇です。登場人物たちそれぞれのエピソードが予測できない方法でランダムに交差することからカオス理論にちなんで「フラクタクル映画」とも呼ばれているそうです。
この『マグノリア』も複数の登場人物それぞれのエピソードを順に追いかけていく形を取るため、『ゲーム・オブ・スローン』と同じような見方ができるものです。
ロバート・アルトマン監督作品『ナッシュビル』
上記の例とは対照的に、群像劇らしい映像体験が味わえる映画が、ポール・トーマス・アンダーソン監督も崇拝するロバート・アルトマン監督による『ナッシュビル』です。
『ナッシュビル』はカントリーミュージックの聖地であるテネシー州ナッシュビルを舞台に24人の主要登場人物が行き交う数日間を描いた作品です。画面には常に複数の主要登場人物たちが映り、何かしらが起きているのですが、通常の物語のように登場人物を順々に説明するわかりやすいエピソードがほとんど存在しないままに物語が進んでいきます。
「見るべきもの」と「見る必要のないもの」の区別が自明ではなく、誰か一人に注目することなく24人を159分の間ずっと眺めることは、観客として眺めの良い場所に座っているのではなく、自分も実際にその場で見聞しているかのような体験が味わえるものです。
誰もがそれぞれの理由でその場所にいる。けれども、その理由をくわしくは知ることが出来ない。たまたま国際線の長時間のフライトに乗り合わせた人々の物語を想像するといった日常の出来事にも似たような体験です。映画のラスト、野外コンサートの会場にそれぞれが居合わすという流れは、そういった群像劇独特の視聴体験を表象するものにも思え、とても興味深いものがあります。
「その場に居合わせるような体験」というのは前回#21で紹介した会話劇の視聴体験にも通じるものがあります。見通しのきかない立場で能動的に映像を体験することの豊かさを、『ナッシュビル』を通して、ぜひ味わってみてはいかがでしょうか?(了)